過酷な試練
大学4年の教育実習の時でした。温室での授業の後、少し高さのある不安定な場所にしゃがんで作業してたところを、生徒がふざけて背後にグッと引き倒したんです。立ち上がりざまだったので、地面に後頭部を強打して…。視床下部に血腫ができる、深刻な脳内出血でした。
意識ははっきりしてるのに、舌がもつれて話せない。数も四つ以上は「いっぱい」。何より手足が鉛のようで、全く自由が利かない。まさに暗黒でした。医師も、植物状態になるだろうと…。
数ヶ月後のある時、たまたま近くにあったビーチボールが目に止まりました。それを足の下に入れてもらったら、ボールの反作用で、鉛のような足がふわりと浮いたんです! その瞬間の感動といったら、言葉にもできないほど。
それをきっかけに、試行錯誤の歳月が始まりました。空気圧を下げたボールに、手足を、そして全身をゆだねる。心地よい揺れを感じていると、頭と体、背中とお腹、肩と腰、筋肉と骨という風に、徐々に自分の体の感じが味わえるようになって。そんな少しずつの積み重ねです。
ガンは宿命か
日常生活に戻るのに、7年半かかりました。教員となり、結婚して3人の子にも恵まれ、仕事では、脳性麻痺などの重度の障害児と関わってきました。
ボールを使った自分自身のリハビリを現場で応用し、改良しながら、次第に心身を解放するボディーワークへと構築していったんです。どんどん輝きを増してくる子供たちとの日々は、本当に充実していました。
そんな日々を裏切るかのように、脊椎に悪性の腫瘍ができたんです。35歳の時でした。
実は、筋ジストロフィーのために修学旅行は無理だと言われた女生徒を、「私が背負っていくから」と、強行したことがあったんです。その時に無理をして脊椎を損傷したのが、そもそもの外因らしい。
自分の信念を貫いて、一生懸命やっていたのに、その結果がガンとは…。それも運命なのだろうか。短い人生だとしても、やるべきことはやってきた。もういい。
医師からは当然、手術や抗ガン剤などの治療を勧められましたが、頑なに断りました。
悦びで、ガンが消えた
寝たきりで8ヶ月が過ぎた頃です。かつて肢体不自由児のために自費で開発した理科の実験器具が、内閣総理大臣賞を受賞したという知らせが入りました。当時、皇太子妃だった美智子様が、開発者である私の状態に、非常にお心をかけてくださったそうです。侍従の方を通じて、異例のお電話がありました。「障害を持つ子のために、どうか元気になってほしい」と。まるで、天からの言葉のように思えました。
翌月の検査で、みかん大の腫瘍が消えていたんです。跡形もなく。
二度目のガンは、新生のための洗礼
再び障害児教育の現場に戻ってからは、先ほどお話ししたボディワーク(ファシリテーション・ボール・メソッド:FBM)の持つ無限の可能性を、さらに追求していきました。
1988年には、世界リハビリ会議で日本代表として発表。体を自由に、柔らかに、伸びやかにするFBMは、不自由な体だけでなく、閉じた心にも働きかけることも、次第にわかってきました。
ところが、そんな中で、腎臓ガンを発病したのです。54歳の時でした。即座に「しまった!」と思いました。ガンの核になるのは心だと、1回目に気づいていながら、同じ事を…。
義父を看取った後に生じた財産問題で、「私はこんなに頑張っているのに…」という不満を溜めていたんですね。
心の深いところで優しくなれなかったし、素直になれなかった。
そんなしこりも、2回目には不思議なほどスゥーっと解けて、自分を赦しきることができました。それが嬉しくて、感謝の気持ちが、まるで光の噴水のようにわき出してくる。自分が別人になったみたいに…。だから、治ることはわかっていました。 やってきたことの果実として
減圧ボールに体を委ねることで、空気に、地球の重力に、何より自分の体や命に感謝すること。FBMは、そのまま心の開放でもあるんです。
ボールに乗ってバランス点を見つけるのも、自分で揺れて、自分で感じて、自分で自分を修めるしかありません。長年の実践の結果を、身をもって検証することができました。
医師に私の考えを伝え、理解してもらった上で、手術だけ受けましたが、輸血はもちろん、抗生剤さえ使っていません。
それから8年たちました。この2年は検査もしていませんが、心身はますます軽やかです
定年後は、FBMで得たことをもっと幅広く活かしたくて、大学院で学んでいます。今年の四月には、米国の大学から名誉博士号(理学)を授与されるというご褒美もありました。
ありがとうの泉は、一生枯れることはないでしょう。
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