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治ったさん(1)治ったさん(2)治ったさん(3)治ったさん(4)

手術を断るのは、それは大変でした。再三延期していたので、三度目に断った時は、担当医と二時間話し合いました。手術はいつでもできます。でも、手術してしまえば人工膀胱に人工肛門ですからね。

自分で治す

入院中に『幸せはガンがくれた』を探してきてくれたのは妻です。その他にもインターネットで調べてくれたり。迷いや不安の真っ只中ではありましたが、どこかで、私が求めていた方向性をわかってくれていたんだと思います。
その頃、タイムリーに川竹さんの講演を聞く機会に恵まれ、やっぱり自分で治すんだと決心しました。会社に配置転換を願い出て、環境を変えることで、新しいライフスタイルを少しずつ作っていきました。
毎朝五時半から三十分のウォーキングは、運動としてだけでなく、朝日を拝むことで心が癒され、勇気と自信を頂いたと思います。

継続のコツは思いやり

一番心がけたのは、継続できることを無理せずに長く続けること。ガンになったのも、ストレスを上手に解消できずに、我慢我慢で、自分自身への思いやりが足りなかった結果ではないかと思うからです。
不安な要素や嫌なイメージは意識的に避け、常に何かに挑戦して、それを現実へと導くように努力しました。千百人集会直前の三月末に、会社で受けた成人病検診の結果は「全くの正常」でした。
発病から一年二ヶ月です。ガンになる前より、心身ともにダイエットして、若返った気がします。

 

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決断の早さ

ガンの患者学研究所」のホームページを見つけたのは、ラッキーなことに、入院して二〜三日目のことでした。すぐに川竹さんの著書やビデオを取り寄せ、手術後は抗ガン剤も放射線も拒否して自分で治して行こうと決めました。
今思うと、この決断の早さは正解だったと思いますね。

捨てれば、もらえる

以前の職場では、リストラを進める仕事に就いていました。性格の合わない上司との人間関係にも行き詰まっていたし、会社のことを考えるだけで、朝起きるのがつらかったほどです。
そんな時、病室で読んでいた『いのちの田圃』の中に「人生の不幸は、真に大切なものをしっかりとつかまないことから始まり、どうでもいいものを手放さないことによって完成する」という文章を見つけたんです。
職場環境を変えるために、思い切って会社をやめました。同時に、玄米菜食中心の食生活に変え、どこへ行くにも車だったのを、散歩やランニングを日課にする生活にしていきました。
なによりも、病気のことを考えずに、日々健康になっていく自分をイメージするようにしました。
千百人集会の時点では、まだ発病から一年半でしたが、ガン細胞はまったくありませんでした。
ガンは「生き方を変えろ」というメッセージだったんだとつくづく思います。

 

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旧制中学1年の夏のことです。柔道部で毎日激しい稽古をしていました。常日頃、先輩から「稽古の後は絶対に冷たい水を飲んではいけない。飲むなら湯冷ましにするように」と注意されていたにも関わらず、井戸へ行ってはガブガブ飲んでしまいましてね。以来、私のS状結腸は、体の中で一番弱い部分となってしまったようで、腹痛、下痢、便秘を繰り返すようになりました。
 高校の教員を退職した後、カイロプラクティックを開業し、以前から取り組んでいたレイキの勉強にも根を詰めていたために、過労もあったのかもしれません。最終的にウィークポイントだったS状結腸に腫瘍ができたのだと思われます。

見えないエネルギーを実感

手術後は、ガンの性格上、便秘にならないよう、生涯にわたって毎日少量の下剤を飲むようにとのことでしたが、身体に合わないので半年で中止。自分なりに考えて、プルーンで調整しています。
ガンを治すためにやったことは、ほぼ、ヒーリングにつきます。
特別な健康食品なども摂っていませんが、自分で田畑を耕し、無農薬の米や野菜を自給自足しています。ヒーリングは、あらゆる動植物に対して効果があるので、私の作る野菜は一般の無農薬野菜よりもさらに滋養があって美味しいと思いますよ。トマトや根菜類は特にいい。
余談ですが、蛇はヒーリングパワーが嫌いなようで、田畑に現れることはないですね。よく吠える犬も私が預かると、無駄吠えしない大人しい犬になります。

情けは人の為ならず

ヒーリングの技術はスクールで習得しましたが、それだけでは満足できず、物質や生体のもつ微細エネルギーを究明する学会のヒーリング分科会に所属して研究を進めました。 最近はアメリカの大学の指導を受けながら、難病、とくにガンに重点を置いた研究をしています。近く、「ガンに対するヒーリングの効果」という論文も発表する予定です。
最初からヒーリングのパワーを知っていましたから、自分の治療だけに必死になることもなく、他人様をヒーリングしながら、同時に自分も健康になろうと努力してきました。人様のために行ったヒーリングが、即、自分のためになる。こんな理想的な行為は他にはないと感謝する日々です。「情けは人の為ならず。巡り巡ってわが身の元へ」というのは、まさにその通りだと実感しています。

ガンがくれた、第二の人生の夢

自分の身体を通して行うヒーリングですから、悪いところがあっては効果も半減します。その意味でも誠実に取り組んできたつもりです。ひ弱だった妻も、私のヒーリングパワーが上がるにつれて、健康が上向きになってきました。
以前は人生70歳くらいかと思っていましたが、現在は90歳以上生きられるのではないかと思うようになりました、自分の為に、人のために身体を大切にしなければという考えから、好きな酒もいつしか飲めなくなってしまいました。
ガンは健康面で大切な教訓を与えてくれただけでなく、第二の人生を、夢あり希望ありの素晴らしいものにしてくれました。本当によい経験をしたと思っています。

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あえて、聞かない

発病時は、叔父と事業をしていました。しかし、ほとんどすべてを私が抱え込む状況だったので、体力的にも精神的にもギリギリの状態でした。
体調を崩し、50日間に及ぶ検査入院の結果、前立腺ガンの末期と診断されました。
家族は「余命三ヶ月から六ヶ月」と聞かされていたそうですが、私には何の宣告もありませんでした。薄々気づいてはいましたが…。
既に手術は適応外。抗ガン剤も効果は期待できなかったのでしょう。通院しながらのホルモン剤治療のみでした。ほとんど気休めだろうとは思いましたが、治療内容についても、病状や検査結果についても、主治医に問いただしたことは一度もありません。
病状をあまり知ろうとしなかったので、心配やストレスを溜めることもなかったんですね。それが良かったのかと思います。

手放すということ

子供たちも独立していましたので、仕事は引退することにしました。すると、それまで長年悩まされてきた頭皮の痒みが、ピタッと治まったんです。仕事のストレスから解放されるだけで、これほど変わるんですね。
そんな体験もあったので、とにかく病気のことを頭から離して、いつも明るい想念をもつように心がけました。絵画展などにもよく足を運びました。
人間は、想念として思い描いている通りになるようです。「元気になるんだ」と自分に言い聞かせるのはいいのですが、あまりこだわっても、病気を意識しすぎることにもなるんじゃないでしょうか。
五年目に発疹が出て、ホルモン剤の内服をやめましたが、これといった代替療法もしませんでした。
毎日やったことといえば、森林浴を兼ねて、公園の中をよく歩いたこと。体を冷やさないように気をつけたこと。何ものにも囚われず、常に神仏への感謝の心を持つように心がけたこと。
人間は病気で死ぬのではなく、寿命が尽きるまでは何らかのお役目があるはずですから。
そして、怒りの感情や恐怖心など、宇宙の法則に反したことがなかったかどうか、自分を見つめ直したこと、でしょうか。
医学博士でもある有名な神社の宮司さんがおっしゃってました。人間の体は小宇宙であり、神とは宇宙意識なんだと。罰を与えることはしない。ただ、警告を発するだけ。それが病気なんですね。

体が喜ぶ自然療法

何が一番よかったのか、どの時点から治っていったのか、明確にはわかりませんが、ホルモン剤の服用を止めてからは、目に見えてよくなっていったように思います。
この二年あまりは、東洋医学に基づいた自然療法を指導してくださる先生との出会いがあって、心身共に快適な状態が続いています。治療というより、自分の体が気持ちいいから、予防医学的に続けているというのが実感です。食の養生と心の養生の相乗効果でしょうか。
千百人集会の前に、念のために主治医を訪ねましたが、すべての検査値は良好で、通院の必要もないとの事でした。
病気を境に、神仏のご加護など、見えない力を確信できるようになりました。
もともと宗教関係の本を読むのは好きでしたが、以前は漠然としか理解してなかったことが、自然と胸に落ちてくるような。
人間は自分で生きているのではなく、生かされているんですね。

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残業につぐ残業で、日付が変わる頃に帰ってくる日々でした。そんな中、背中の我慢できない痛みに襲われ、病院で検査したところ、「ガンかもしれないので、早く切った方がいい」と。
でも、「かもしれない」という状態で、お腹を切るのは納得できなくて、知人の紹介で大病院に入院。手術するならちゃんと調べてからにしたいし、その時はまだ、手術すれば95%は治ると思っていたからです。
ところが、その病院でさらに検査すると、遠隔転移があり、手術で取りきれるものではないとのこと。「悪い方から50%の人は、10か月以内に亡くなっている」と、医者は淡々と話すのです。
顔から血の気が引きました。何で37歳の私が、あと1年足らずで死を迎えなければならないのか。2人の子どもはまだ小学生です。とても受け入れられるものではありません。

迷いながらの抗ガン剤治療

そこでは、医者ができるのは、抗ガン剤治療だけです。当時は近藤誠先生の『ガンと闘うな』というような本がベストセラーになっていて、私も随分抵抗しましたが、結局、絶望的な状況下では、それにかけるしかありませんでした。手術適応状態にもっていくための多剤併用療法です。
最初は、「抗ガン剤の苦しさも、ガン細胞と闘っているからだ」とイメージしていたのですが、4クール目に入る時、どうしてもこれ以上はダメだと思い、中止を申し出ました。マーカーも正常値に近くなっていたので、代わりに手術をすすめられました。
散々迷いましたが、医者が取りきれるというなら、家族のストレスをなくすためにも切った方がいいだろうと決断。13時間におよぶ大手術でした。

ガン細胞を叩きながら、心も変える

一方で、家内はいろいろな治療法に関する情報を集めてくれました。そして、あるホリスティック医学の先生に診てもらうことになったんです。
そこでは患者のやりたいという治療に取り組んでくれます。気功とか太極拳などもあるのですが、先生は「それはあくまで形であって、要は心を変えて行くのです」と言います。
最初は何を言っているのかわかりませんでしたが、心や体のストレスから免疫機能が壊れて自分の細胞が異常増殖するのがガン。だから、いくら外科的な療法で悪いところだけ取ってもダメなんだと、次第にわかってきました。部分ではなく、心も含めて全体を変えていかなくてはならないのだと。
6か月にわたる抗ガン剤治療の合間に、代替療法のために2週間ずつの短期入院を繰り返す。そして手術。術後は回復を早めるために、家内と懸命にビワ温灸をしました。

心の平静さを取り戻し、自分を見つめる

幸いにして、私はやったことがすべていい方向に向かい、発病からほぼ1年で、仕事にも復帰することができました。やるだけのことをやれば、結果は神様が決めることだと思っています。
ある住職さんとの出会いで、歎異抄の勉強会に参加できるようになったことも幸運でした。心の平静を取り戻すことができ、気功等の心の持ち方と併せて、病に立ち向かうことができたと思います。ほぼ毎月、今も欠かさず出席しています。 
闘病中は筆舌につくしがたい日々でしたが、ガンにならなかったら、自分のことがわからなかったと思います。
自分は正しい、間違っていないと思うことでも、人の迷惑になっているかもしれない。そんな物の考え方、とらえ方ができるようになりました。
患者が多い大病院では、とかく待たされることが多いものです。公平を期すのはいいのですが、まだ30代の自分なら、検査や手術などの順番を多少考慮してもらってもいいのではないかというようなズルさや我欲があったことも、後になって気づいたことです。
入院中に様々な患者さんを見てきました。人生経験の豊富な方でも心が乱れた人。逆に、20代でも落ち着きをもっている人。年齢ではないんですね。

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過酷な試練

大学4年の教育実習の時でした。温室での授業の後、少し高さのある不安定な場所にしゃがんで作業してたところを、生徒がふざけて背後にグッと引き倒したんです。立ち上がりざまだったので、地面に後頭部を強打して…。視床下部に血腫ができる、深刻な脳内出血でした。
意識ははっきりしてるのに、舌がもつれて話せない。数も四つ以上は「いっぱい」。何より手足が鉛のようで、全く自由が利かない。まさに暗黒でした。医師も、植物状態になるだろうと…。
数ヶ月後のある時、たまたま近くにあったビーチボールが目に止まりました。それを足の下に入れてもらったら、ボールの反作用で、鉛のような足がふわりと浮いたんです! その瞬間の感動といったら、言葉にもできないほど。
それをきっかけに、試行錯誤の歳月が始まりました。空気圧を下げたボールに、手足を、そして全身をゆだねる。心地よい揺れを感じていると、頭と体、背中とお腹、肩と腰、筋肉と骨という風に、徐々に自分の体の感じが味わえるようになって。そんな少しずつの積み重ねです。

ガンは宿命か

日常生活に戻るのに、7年半かかりました。教員となり、結婚して3人の子にも恵まれ、仕事では、脳性麻痺などの重度の障害児と関わってきました。
ボールを使った自分自身のリハビリを現場で応用し、改良しながら、次第に心身を解放するボディーワークへと構築していったんです。どんどん輝きを増してくる子供たちとの日々は、本当に充実していました。 
そんな日々を裏切るかのように、脊椎に悪性の腫瘍ができたんです。35歳の時でした。
実は、筋ジストロフィーのために修学旅行は無理だと言われた女生徒を、「私が背負っていくから」と、強行したことがあったんです。その時に無理をして脊椎を損傷したのが、そもそもの外因らしい。
自分の信念を貫いて、一生懸命やっていたのに、その結果がガンとは…。それも運命なのだろうか。短い人生だとしても、やるべきことはやってきた。もういい。
医師からは当然、手術や抗ガン剤などの治療を勧められましたが、頑なに断りました。

悦びで、ガンが消えた

寝たきりで8ヶ月が過ぎた頃です。かつて肢体不自由児のために自費で開発した理科の実験器具が、内閣総理大臣賞を受賞したという知らせが入りました。当時、皇太子妃だった美智子様が、開発者である私の状態に、非常にお心をかけてくださったそうです。侍従の方を通じて、異例のお電話がありました。「障害を持つ子のために、どうか元気になってほしい」と。まるで、天からの言葉のように思えました。
翌月の検査で、みかん大の腫瘍が消えていたんです。跡形もなく。
 
二度目のガンは、新生のための洗礼

再び障害児教育の現場に戻ってからは、先ほどお話ししたボディワーク(ファシリテーション・ボール・メソッド:FBM)の持つ無限の可能性を、さらに追求していきました。
1988年には、世界リハビリ会議で日本代表として発表。体を自由に、柔らかに、伸びやかにするFBMは、不自由な体だけでなく、閉じた心にも働きかけることも、次第にわかってきました。
ところが、そんな中で、腎臓ガンを発病したのです。54歳の時でした。即座に「しまった!」と思いました。ガンの核になるのは心だと、1回目に気づいていながら、同じ事を…。
義父を看取った後に生じた財産問題で、「私はこんなに頑張っているのに…」という不満を溜めていたんですね。
心の深いところで優しくなれなかったし、素直になれなかった。
そんなしこりも、2回目には不思議なほどスゥーっと解けて、自分を赦しきることができました。それが嬉しくて、感謝の気持ちが、まるで光の噴水のようにわき出してくる。自分が別人になったみたいに…。だから、治ることはわかっていました。

やってきたことの果実として

減圧ボールに体を委ねることで、空気に、地球の重力に、何より自分の体や命に感謝すること。FBMは、そのまま心の開放でもあるんです。
ボールに乗ってバランス点を見つけるのも、自分で揺れて、自分で感じて、自分で自分を修めるしかありません。長年の実践の結果を、身をもって検証することができました。
医師に私の考えを伝え、理解してもらった上で、手術だけ受けましたが、輸血はもちろん、抗生剤さえ使っていません。
それから8年たちました。この2年は検査もしていませんが、心身はますます軽やかです
定年後は、FBMで得たことをもっと幅広く活かしたくて、大学院で学んでいます。今年の四月には、米国の大学から名誉博士号(理学)を授与されるというご褒美もありました。
ありがとうの泉は、一生枯れることはないでしょう。

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第1回世界一元気ガンの患者学ワールドのビデオ

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